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家族の声 -家族はどのように嚥下障害と闘ったか−

闘病日記

この闘病日記は、当HPを参考に嚥下障害のお父様を看病された際の記録です。
当HPの掲示板なども利用され、皆様からの意見なども参考にされながら看病を続けられた結果、現在では信じられない位お元気になられたそうです。嚥下障害患者さんやご家族の励みや参考に、また医療関係者、介護関係者の方の嚥下障害への対応への再考になればと考えます。  

患 者 ○口○○男(大正11年11月10日生 78歳)
記述者 ○井○○子(患者長女)


 

4月 5日 
心臓に軽い痛みを感じ、近所の内科医のすすめで、国立O病院へ心臓カテーテル検査のため入院する。

4月10日
造影検査を行う。この時点でかなり血管が詰っているらしいとの事。

4月17日 
詳しい説明を受ける。冠状動脈ほか3本、4箇所で、100%ちかく、詰っていて、いつ心筋梗塞を起してもおかしくない危険な状態らしい。

4月18日
決断がつかず、とりあえず国立の資料を借りて、セカンドオピニオンとしてF病院へ母と私で行く。結果国立とほぼ同じ。父の希望で、国立での手術を決定。23日手術と決る。私達は手術するには高齢なのではと、そのままにしておきたかったのだが、医師の「現在はもっと高齢者の手術もかなりしている。」との言葉で決心した。心臓の手術というとすごい大手術のように思うが、約1ヶ月の入院ですむらしい。
 
4月19日 
早朝病院より電話があり、「前倒しで、20日に手術を行う」と連絡を受ける。夜、急遽手術説明と、承諾書サイン。(あとで聞いたのだが、20日手術予定の患者の体調が悪く、父の手術が早くなったらしいが、セカンドオピニオンを頼んだことも原因のように思う。)

4月20日 
AM9時、手術開始。PM:4時頃、終了。3本のバイパス手術終了。
ICUで面会、今日はICU泊。

4月21日 
AM10時頃、ICUから帰ってくる。麻酔による記憶障害もなく、順調に見えた。

4月22日 
父と同じ頃入院していた主人の父親が死亡。

4月24日 
早朝病院より「AM3時頃、家へ帰ると騒いだ」と電話があり、急ぎ母が病院へ。術後には結構あるので心配ないらしい。

4月25日 
重湯の食事が出るが食欲なし。夜帰るのがつらい。(付添いは夜8時まで)

4月26日 
気がかりで朝5時に病院へ行く。早朝、錯乱状態となり鎮静剤を2度打たれる。この日から母と二人病院に泊り込む。

4月28日 
この日から絶食・絶飲。飲める時は欲しがらず、飲めなくなると水を欲しがる、かわいそう。

4月30日 
肺カメラを入れて、気管洗浄。すっきりした様子で自宅から持ち込んだ椅子に5時間も座りご機嫌。少し元気になる。

5月 1日 
レントゲン検査中停電で長引き疲労こんぱい。昼頃から、おびただしいたんが一晩中続く。夜、便器に座って排便、すっきりしたと嬉しそう、夜景を見て「キレイやな、もうこれで見納めかな、今度はもうあかん様な気がする」などと言う。廊下に出て一人泣く。
 
5月 2日 
主治医より、「誤嚥性の肺炎を起している可能性があるから、気管保護のため、気管内挿管を行いたい。」との話があった。麻酔なしで何日かがまんさせたいとの事だったが、苦しがって外してほしがるので、結局麻酔を打ってもらう。

5月 3日 
目をさまして、筆談で抜いてほしいと懇願。その後、眠ったが、AM3:00頃目覚めて、突然自分で、管を抜いてしまい、再入管、人工呼吸器をつける。
苦しむ姿を見ているとつらい。人工呼吸器を外してからが大変なので夜の付添いをやめるよう病院から言われ、今日から泊りを中止する。

5月 4日 
主治医の説明があり、MRSA感染を知らされる。血液検査による肝臓、腎臓、炎症反応の数値も高く、この状態が1週間続けば、打つ手はないと判断せざるを得ないという非常に厳しい状況らしい。たいした症状もなかったのでカテーテルをいれてふうせんをふくらませて終りくらいに思っていたのが、どうも大変なことになってしまったようだ。手術まえに受けた説明の「最悪の場合」なんてありえないと思っていたのが、その通りになってしまったようだ。

5月 5日 
母が腰痛で自宅静養になる。

5月 8日 
ずっと眠らせていたがそろそろ起してみるとのことで、朝から投薬をやめ、1時間位で目を開いたが反応なし。夜中にはっきりすると危険とのことで、夜、また投薬を開始して眠らせる。

5月 9日 
昨日より早く投薬を中止したが、きのうよりもっと目覚めが悪い。夜、また投薬を開始して眠らせる。どうなるのだろう。

5月10日 
今日は一週間ぶりにはっきり目を覚ます。この先どうなるか判らないが意識の有る顔を見るのはやはり嬉しい。夜、主治医より説明があり、はじめから心配していた腎臓は意外と健闘しているが、肝臓がどんどん悪くなっているとの事。原因としては、抗生物質や今までに使った鎮静剤のせいか、肝臓そのものが悪くなっているのかわからない。
抗生物質を、MRSAに対するものだけにして、様子を見ることになった。それで好転してこなかったら、だめかもしれないとのこと。そして、唾液の気管への流れ込みを止めるのに、今の状態より楽にするため、気管切開をすることになった。

5月11日 
気管切開を実施。たんをとってもらうのは楽になったようだ。
今日の血液検査の結果、肝臓の数値が下がりはじめたのがわかった。
夜になって、しゃっくりが止まらなくなる。口腔内を圧迫したり、たんをとってもらったりすると一時的に止まるが、又すぐでだす。蕁麻疹が出、しゃっくりが止まらないので今夜は弟に泊りをしてもらい、泊りを復活。

5月12日 
今日の夕方から、経管栄養をやめて鼻管チューブからの食事がはじまる。
今夜は息子と病院に泊る。母の腰痛が治まらないので診察を受けると、圧迫骨折、全治一ヶ月との診断。ここへ来て二人の看護とは、みんな大ショック。

5月13日 
気管切開の傷口と心臓手術の傷が、赤くはれ上がってきた。傷口にMRSA感染の疑いがあるらしい。それにまた肝臓の数値が悪くなってきている。
少し希望が出てくると、すぐ次の問題が出てくる。これから先どうなるのか不安でいっぱいだ。主人に病院泊りをしてもらう。

5月14日 
午後、呼吸器をはずしてもらう。目はあいているが、反応はほとんどない。
今夜からまた泊りを休止する。

5月15日 
赤くなっている傷口のCTをとる。たちの悪いものではなく、皮膚の表面が赤くなっているだけらしい。胸水がたまってきているので、左100ml、右350mlを抜いてもらう。手術後はずっと38度、夕方になると、39度近い熱が続いている。今日から、ベッド上でのリハビリがはじまったが、毎日の発熱、それにチューブでの食事、こんな状態でリハビリをすすめられるんだろうか。

5月17日 
少しましになっていたたんが今日はふえている。寝たきりの状態になると、たんが出せなくて、度々取ってもらわねばならないのだが、その度にとてもつらそうでみていられない。人工呼吸器をつけて、意識のない時でも全身で苦しそうに反応する。こんなめにあいながら、結局助からなかったら、かわいそうすぎる。よくなっていく病人の看護はやりがいもあるけれど、こんな状態では落ち込んでいくばかりで、いつまで続けられるか自信がない。

5月18日 
また、胸水を左右とも抜いてもらう。まだまだ溜まりそうとのことだ。

5月20日 
19日夜中に、鼻管チューブを抜いてしまい、再入管。胃腸の動きが悪く、胃液や、胆汁が戻ってくる。

5月21日 
ずっとぼんやりしていたのが、今日は意識がはっきりしている。昨日まではそばにいても誰が来ているのかもわかってくれなかったけど、今日は認識できている。

5月23日 
鼻管チューブを又、抜いてしまう。再入管がスムーズにいかず、先生も交代して、何度も失敗しながら、やっと入った。

5月24日 
しっかりしてきた意識が、又今日は逆もどりで、反応がない。

5月25日 
管から入れた食事が逆流して、口の中いっぱいにたまってしまう。

5月26日 
午前中はぐったりして、ほとんど眠っていた。朝の食事はほとんど戻し、昼食は途中で様子がおかしくなり、ストップ。夜だけが、OK。手術後の傷跡が痒いようで、傷口へ手を持っていくため気を緩められない。

5月28日 父がチューブを抜かないからと看護婦さんと約束をして拘束を解いてもらった瞬間にまた、チューブを抜いてしまった。今日はスムーズに、再入管。食事の戻りは減り、うまくおさまるようになってきた。

5月29日 
また、チューブを抜く。今日はいれかえの時、何度も気管の方へ入ってしまい、かわいそうで見ていられなかった。その後は、ずっと眠ってしまう。

5月30日 
今日も日中は、ずっと眠っている。鼻管チューブを入れてから、夜、家族が帰る時に、手を拘束するので、どうも夜中は寝ていないらしい。
拘束姿が痛々しく、かわいそうなので、夜中に、チューブを抜かないよう監視するからという条件で、拘束をやめてもらうことにして、泊りこむ事になった。

5月31日 
午前中は、眠っていて、調子は良くない。昼から又、しゃっくりがでて、とまらない。苦しそうで見ていられなくて、先生や看護婦さんに止めてほしいと頼むが、病院の人達は結構平気。どうしょうもないと、言われる。かわいそうで「今日は泊ろうか」と言うと嬉しそうにうなずく、泊りを復活させる。

6月 1日 
朝方、急に全身にじんましんが、出る。しゃっくりも、とまらない。ウトウトした時だけ、とまっている。主人が泊る、蕁麻疹で痒くなるため一睡も出来なかったと言う。

6月 2日 
一度おさまったじんましんが、また、朝方から出る。

6月 3日 
夕方から又、じんましん。夜、泊りだすとかわいそうで休めない、続けられるのか心配。

6月 4日 
チューブからの流動食は、順調に採れるようになってきた。主治医の話では、肺炎はもともとそう重症ではなかったし、MRSAの発熱なら、もっと高熱のはずだし、何が原因でこんな症状が出るのか、わからないと言われる。医師から「わからない、どうしよう。」と言われると本当に不安になる。
意識がはっきりしてきたのに、気管切開のため話せず、力もなくなっているのでペンを持って書くことも出来ず、自分の意志が伝えられないので、イライラすることが多い。こんな状態で今後をすごすとしたら、どんな生活になるんだろうか。病院の泊りは自分一人で、昼は家族みんなで看護することになる、大変。

6月 5日 
今日、気管のカニューレをカフのないものに、取り替えてもらうが、すぐに唾液が、気管に流れ込んでいるのがわかって、また、元のカフ付のカニューレに戻すことになった。 

6月 6日 
朝、少し目を離したすきに、鼻管チューブを抜いてしまう。すぐ、挿入を試みるが、入らずさんざん痛い思いをする。どうも気管の入口が開いてしまっているために、食道の方へ入る前に、気管へ入ってしまうらしい。母が昼の付添いに復帰。

6月 7日 
肝臓も腎臓も、少しずつ落着いてきているが、体力が落ちこんでしまっているのと、気管の入口が開いているのが、一番の問題。耳鼻科に相談するそうだ。 

6月 8日 
昨日から、発熱しなくなっている。今日は36。8度。続けばいいのだが・・・。
 
6月 9日 
朝、字を書いてみると言うので、無理だろうと思いながら、渡すとしっかりペンを持って、「おなか、すいた.」と、はじめて読めるように書けた。熱が、出なくなって、ぐんと状態がよくなったようだ。

6月11日 
又、鼻管チューブを看護婦が、目を離したすきに抜いてしまう。今回で6回目。

6月12日 
寝たきり生活も2ヶ月近く、被害妄想が出てきて、「病院はみんなグル」、「どこかで、話を聞かれている」、「警察へ連絡して、助けてもらおう」などと書きまくる。
耳鼻科の診察はまだしてもらえないのかと催促すると、ようやく明日に決った。病院や医師にとってはたくさんの患者の1人だからか、なんでもこちらから催促しないと進まない。手遅れにならないよう、一刻も早く出来ることを
したいとおもうのだが・・・。あまりうるさく言って、いやがられるのもまずいと思うのでなかなか要求できない。主人が泊り、たんがひどく吸引してもらいぱなしだったらしい。

6月13日 
朝から、荒れっぱなし。妄想はますますひどくなる。看護婦につかみかかり、私は、手をおもいきりかまれた。昼すぎ、耳鼻科の診察。内視鏡での検査では、「口頭蓋のマヒはないのだが、動きが悪く、唾液の流れ込みを止めきれない。 手術は60才位までが限度で、するとすればリハビリ、なるべく早いほうがいいが、この病院ではしていない。している所は数が少なく、あってもMRSAが出ている間は受け入れてくれない。今のところはどうしようもない。」と言って、医師は早々に帰ってしまう。もう少し状態がよくなったら、カニューレの種類を替えて、話す時だけ、ふたをしてという生活が、やっとらしい。口からはほとんど食べられず、チューブからの栄養に、頼ることになるらしい。
命は助かってもそんな生活、想像もつかない。今後のこともあるので、チューブの挿入を習って、朝チューブを入れて、夜に抜くようにしたいと、主治医に頼んでみる。OKがでて、明日から練習することになった。
今日、導尿管と,点滴を外してもらい快適なのか一晩ぐっすり眠る。

6月14日 
主治医に見てもらいながら、チューブを入れてみるが、気管の方へ入ってしまう。結局、主治医が苦労して入れてくれた。

6月15日 
夜、抜いたチューブを朝入れようとしたが、また気管へ。その後、医師3人が、次々と代って入れようとしたが、ダメ。今日は、中止となった。

6月17日 
昼ごろ、主治医が再度チューブ挿入を試みるがダメ。結局、19日に内視鏡で見ながら入れてみることになった。
1日中、機嫌が悪く、カニューレを何度も外そうとするので止めると、たたいたり、髪の毛を引張たりと、精一杯の力で暴れる。鼻からの栄養が摂れないので、代りに水分だけを点滴で入れていたのだが、結局、それを外してもらうことで落着く。その後、気管切開のガーゼ交換の最中、カニューレを抜いてしまう、看護婦と二人でも止めきれない。再装着してもらう。その時に「痛い、痛い。」という父の声を約2ヶ月ぶりに聞いた。久しぶりの声がこんな言葉というのはつらい。

6月18日 
栄養も水分も入っていないので、元気がない。昼頃、どうしてもトイレへ行きたいと言うので、看護婦の助けを借りて行く。2ヶ月寝たきりなのに、支えると、どうにか歩ける。トイレへ行けたことが満足で、昨日まで落ちこんで荒れきっていたのが、落着いて別人のようになっていた。
夕方から、とりあえず腕からの点滴再開。夜になって、主治医から鼻管チューブはあきらめて、首からの経管栄養にもどるか、胃ろう形成を選んでほしいと言われる。家族で相談の結果、首は感染が怖いし、胃ろうを作ると、もうずうっと胃ろうに頼ることになりそうだし、しばらく腕からの点滴にして欲しいと申し入れる。

6月20日 
腕からの点滴では、栄養を取りきれないから胃ろうをつくりたいと言われたが、内視鏡で見ながら鼻管チューブを入れてほしいと申し入れる。かなりの時間はかかったが、どうにか入った。けれど、主治医が診たところでは、「食道が何処にあるのかわからない状態で口頭蓋は完全にマヒしている」ようだという。この間、耳鼻科の医師はそんなこと言わなかったが・・・。やはり、もう口からの摂取はかなわないのだろうか。
今日は白湯だけ入れることになったが、1週間近く胃にものを入れていないので、受けつけるかどうかわからないという。また、難題が持ちあがった。

6月21日 
心配したが、何事もなく胃は消化している。高カロリー飲料、1日3本から開始。今回のチューブが、鼻のどこかであたっているのか、何かできているのか、鼻の奥と頭が痛いと訴える。昨日したチューブの挿入が長時間で苦痛が大きかったため2度目の手術をしたと思い込んでいる。「この手術で助かるのか」と筆談で聞いてくる。つらい。

6月22日 
チューブ栄養は、1日6本に増量。チューブの不快感・痛みはますますひどくなっているようだ。今日から、水くらいは流れ込んでも大丈夫ということで、少し飲ませてもらえるようになった。父が主治医にのどの器具はいつ頃取れるのかという質問状を書く。どんなふうに返事してくれるのか心配だったが、「いつになるかは約束できないが、体力がついてくれば、多分抜くことが出来ると思う。」と、答えてくれて、一応納得した。

6月23日 
午前中はご機嫌で腹筋運動をする、午後はぐったり。主人泊り。

6月24日 
尿道管を外してもらい、久しぶりに便器で排尿、気持ちよさそう。歩行器で少し廊下を歩く。気持が安定している、続けばいいが。

6月25日 
耳鼻科の医師からは、嚥下障害がよくなることはないと言われたが、主治医からも、「ここでは、ぼつぼつ体力をつけることしか出来ない。ただ、体力がつけば、嚥下障害の方も改善されるんじゃないかと、思っている。」と言われる。相変わらずはっきりとした回答はもらえない。
父は、体力がつけば大丈夫と言われ、リハビリにも積極的になっている。食べられるようになると信じているのがこわい。ダメとわかった時、どんなになるのか、考えるだけでも絶望的になる。

6月26日 
整形医、主治医からも体が回復すればそれが、咽の回復にもつながると言われリハビリにせいを出している、かわいそう。

6月27日 
椅子に座ってテレビを1時間ほど見る。廊下歩きもし、散発もしたいと言う、すごく前向きになって来ている。

6月28日 
昨日は気分もよさそうだったのに、今日は元気なく、寝ている時間が多い。

6月29日 
今日、カニューレを話すときだけふたをする型式に替えてもらった。この前のように唾液が、すぐ流れ込んでしまうようなことはなくなっていた。
前にくらべて、好転してきているのは間違いないようだ。2ヶ月ぶりに、しゃべれるようになりました。私達に「いろいろとありがとう。もう大丈夫。」と言ってくれる。でも、口から食べるのはどうなるんだろうと思うと、不安になる。

6月30日 
何か味の着いたものが食べたいというので、看護婦と相談して、かき氷を食べさせたが、主治医から糖分のあるものは危険ということで、ストップがかかった。こんなちょっとした幸せも無理なのか、夜は話せない状態の器具になる。今夜は一度もタンを取ってもらわずにすみ、久しぶりの静かな過しやすい夜となる。

7月 1日 
医師の話を聞いても、嚥下障害の詳しいことがわからないので、自分でどうにかしようと、インターネットで検索していると、山部先生のホームページが見つかった。すごい充実したものだ。色々なことがわかった。食べるというメカニズムがあんなに複雑なよくできたものだとは、知らなかった。
      
7月 2日 
山部先生に、「助けてください。」とメールしたら、すぐに返事をいただいて、神戸の永田さんを紹介していただき、電話をする。いろんな話をさせていただき、とても親切にアドバイスしていただいた。天理よろず相談所病院に、嚥下リハビリがあることを教えていただき、信者であり、医師に知人もあるので、紹介状をもらって行ってみることにしよう

7月 3日 
主治医から、鼻管チューブをいつまでも入れ続けるのはかわいそうだから、やはり胃ろうを作った方がよいのではないかと、すすめられる。
永田さんからアドバイスしていただいたアイスマッサージと、嚥下体操を開始。マッサージ用のアイス棒を作って、ポットに入れて病院へ持っていくことにした。すぐ使わない分は、ナースステーションのフリーザーで預ってもらうことにした。父はあまり気がすすまないようだが、「これをつづけることが、きっと食べられるようになる道。これしかないのだから、がんばろう。」と説得する。

7月 5日 
山部先生にお願いしてあったビデオが届く。映像で見ると、もっとよく理解できた。

7月 9日 
のどの調子がよさそうなので、カフのない気管カニューレにつけかえてもらった。様子をみて、ダメだったら、またカフ付きに戻すということだったが、大丈夫だった。一歩前進。
今日、胃ろう手術のための外科診察があった。本人はチューブの不快感から解放されたい気持が強く、早くして欲しいと言う。CTで状態を診てから、決定することになった。

7月10日 
動きが軽くなってきている、トレーニングも嫌がらずに出来る様になってきた。

7月12日 
歩行リハビリも、嚥下体操もすすんでするようになった。
私が毎朝一緒にしているが、終ったあとは口周辺の筋肉の動きが良くなっているのが自分でよくわかる。これはきっといい効果を与えてくれるに違いないと確信して、継続していこうと思う。

7月14日 
タンをとるチューブが、入りにくくなっているが、本人はそう息苦しくもないらしい。

7月15日 
チューブが入らなくなってしまったので、交換してもらう。下方3分の1位にタンがこびり付いて、詰ってしまっていた。やはり、タンも唾液も流れ込んでいるらしい。気管の方へ入ってもむせないらしい。

7月16日 
胃ろうがついたら、紹介状をもらおうと思うが、なかなか進まないとイライラしていたら、外科の医師から説明があった。内視鏡での手術となるが、危険性としては、肝臓にまで孔をあけてしまう恐れがあることと、出血により腹膜炎を起す可能性があると、告げられる。バイパス手術後、なにもかもうまくいっていないので心配だが、18日に決定。

7月18日 
胃ろうの手術は、1時間ほどで終了。夜から痛みと発熱。病院から夜の付添いをソロソロ終るように薦められる、父と話しあって今月一杯と決める。

7月19日 
明日までは絶食で、点滴を受ける。せきや吸引のたびに傷が痛む。今日は微熱あり。エアコンの故障が続き暑くつらそう。

7月21日 
今朝から、胃ろうを使って栄養再開。チューブで栄養を摂取するようになって以来、ずっと看護婦達は「さあ、お食事ですよ。」といいながら、管へ流し込む。この言葉に私はすごく抵抗があり、こんなの食事じゃないと反発しながら、「さあ、栄養いれてもらおうね。」と必ず、言いなおし続けた。

7月22日 
カニューレの交換。タンのこびりつきがひどく、管がつまりそうになっている。1週間ごとの交換では遅いらしい。

7月23日 
耳鼻科の診察予定。病院内の連絡不十分で中止、大丈夫この病院?

7月24日 
3度の食事ごとに2本の栄養を入れるのは、胃への負担が大きすぎるらしく、食後気分が悪くなってしまう。それで、1日6回に分けて入れることになった。主治医から、鼻管チューブを深めに入れたため、先が十二指腸に入っていたらしく、胃をずっと使っていなかったかもしれないと、今ごろ言われた。  
父に聞くと、食事の後も全然、満腹感がなかったというから間違いないようだ。つくづく、患者のことを本当に考えてくれていないと、腹立たしく思う。看護婦から、「そろそろ家族の方に、家でも出来る様に胃ろうの使い方を習ってほしい。」と、いわれるが、「まだ望みは捨てていない。どんなことをしても口から食べさせたいから、習うつもりはない。」とはっきり断る。朝の洗顔も自分で洗面場でするようになる。微々ではあるが前進している。

7月27日 
カニューレの交換。主治医から「もう抜いても、大丈夫かもしれないが、やはり、もう少し様子をみよう。」と、言われる。出来るだけ早く抜いてほしい。

7月30日 
少しは、のどの状態がよくなっているのではと、今日、耳鼻科の診察を受けた。内視鏡を入れてみると、気管の方に唾液の溜まってるのが見えた。やはり、流れ込んでいるのは間違いないらしい。それで、希望していたVFは中止となった。医師から、「これからずっと、胃ろうで生活していくのがベストと言われる。ゼリーも食べない方が安全。そう言われても、まだ経口摂取をあきらめるわけにはいかないと決めて、天理よろず相談所病院への紹介状を依頼する。

7月31日 
天理よろず相談所病院へ紹介状を持って行くが、現在は、この病院で入院中に嚥下障害になってしまった患者だけの、ベッドしかない。通院なら受けいれるが、今の父には無理ということで、あきらめるしかない。他を考えなくては・・・。.病院に帰ると、心臓外科部長から、「胃ろうで栄養状態も良くなってきているし、これで生きていけるのだから、そろそろ退院を。」と言われる。
この病院に世話にならなければ仕方ないと思うと、今まで言いたいことも、なかなか言えなかったが、「思い切ってMRSAに感染させた病院には、責任があるはず、これがある間はよそへも行けないのだから、病院にいる権利がある。感染症がある間は、退院するつもりはない。」と、はっきりいった。今夜で夜の付添いを終了する。心身ともくたくた。

8月 1日 
ボバースに、知人を通じて紹介してもらったが、「うちの病院は脳障害を原因とする嚥下障害が専門で、国立へ問合せた結果、父のようなケースは回復の可能性が少いとの返事がきた。それにMRSA感染者用のベッドは、ボバースで感染した患者用で、よそからの受入はしていない。」ということで断られた。

8月 6日 
夏休み明けの主治医が、久しぶりに顔を出したので、耳鼻科の結果を話す。ダメと言われても、内緒で食べさせてみようと用意してあったゼリーを、少しだけでいいからと、見てもらいながら食べさせると、何事もなく食べられた。3ヶ月半ぶりの食べ物で最高の笑顔。長い間、がまんしたかいがあった。

8月 7日 
天理よろず相談所病院の医師で、知人の高橋先生から電話があり、「私からも、うちの病院への受入を頼んだが、希望に添えそうもない。その代りに、羽曳野の方で受け入れてもらえる病院を紹介する。」と、連絡を貰った。ゼリーは量を食べたがる。むせないけど、どうなっているのかわからないので不安。

8月 8日 
紹介してもらった羽曳野:城山病院へ。院長先生が会ってくれて、MRSAが消えた時点でリハビリ入院が出来ることになった。ただし、リハビリ期間は3週間。

8月10日 
6日からゼリーを食べはじめて、「やっぱり、口から食べると、元気が出る。」と言うとおり、随分、力がついてきたように思う。主治医に、おやつのゼリーでなく、ゼリー食摂取とカニューレの除去を頼むが、まだ早い気がすると、断られる。

8月17日 
1日2コ程度のゼリーを食べて、順調。内緒で、アイスクリームも少し。
長い間、実施していなかったMRSA検査がはじまり、9日採取の検査結果はOKが出た。

8月18日 
13日のMRSA検査の結果もOK.。

8月20日 
今日から、ゼリー食開始。主治医に転院の日まで国立にいられることを改めて確認。午後、介護保険のケアマネが来てくれる、ありのままの申告、どんな結果が出るのだろう。

8月21日 
ゼリー食とは、本当にゼリーのみ。色の違ったものが、5個位並んでいる様子はすごいものがある。こんなものばかり食べられるのかしらと思ったけど、4ヶ月何も口にしていない人には、それなりにうれしいようだ。

8月22日 
朝、気管カニューレ除去。さかんに空気がもれているが、夕方にはもう傷口はかなり小さくなっている。昼すぎ、MRSAの3度目の検査OKで、消滅を告げられる。今日はなんとすばらしい日なんだろう、「バンザイ」。これで、転院と思ったのだが、主治医から、「このまま、ここにいても、少しずつ食べられるようになるんじゃないかと思う。」と言われる。私は、すぐにでも転院と思うが、父は不安を感じ、あまり乗り気でない。

8月23日 
ゼリー食が順調なので、胃ろうは使わずに、様子を見ることになった。
ずっと、コーヒーを飲みたがっていたので、内緒で飲ませてみる。(許可は出ていない。)

8月24日 
売店で、ところてんをじっとながめているので、買って帰り、パックの4分の1くらいを一気に。うまく食べられたようだ。4月の入院以来、ずっと個室にいるので人がものを食べるのを、見ないで過して来れたが、相部屋に入っていたら、もっとつらい思いをしなければならなかったと思う。友人がお見舞に見え、喫茶店へ、一段と元気になってきている。

8月26日 
日帰りで、5ヶ月ぶり帰宅。晴ばれとした顔をしている、一時はもう家へ帰ることは無理だと思っていたので、感無量だ。涙が止らない。

8月29日 
夕方から、五分がゆの食事に変更。おかずはミキサーでどろどろにしたとろみ食になった。これも上手に食べている。進まなかったら無理にでも転院と思うと、変化があって、動けなくなる。

8月31日 
外泊に向け、栄養士から栄養指導を受ける。

9月 1日 
はじめて、1泊2日の外泊。

9月 2日 
外泊で張りきり、自宅での二階への上り下りがこたえたのかリハビリでもうまく歩けない。

9月 5日 
今日から、きざみ食に昇格。細かくはしてあるが、材料が何かわかる食事になった。

9月 7日 
胃ろう除去のため、CTを撮る。何事もなければ、来週には、手術。外せないと思ってほしいと婦長からも言われていたけれど、私達の希望どおりになってきている。

9月 8日 
週末の外泊。家に帰って、昼に天ざるうどん、夜はうな丼を食べる。御飯粒を食べられるようになるなんて、本当に考えられないことらしい。10日から病院でも普通食になる予定。

9月 9日 
自宅で洗面所へ降りる時、仰向けに倒れ自分では起きあがれない、背中にスリ傷と内出血、治るのに時間を要しそう。病院へ帰る前に、夕食は中華料理店へ。びっくりするほど、いろんなものを食べた。嬉々として食べているのを見ると涙が出てくる。

9月12日 
胃ろう除去。14日まで絶食。いったん食べられるようになった後なので、食べられないのはつらそう、一変に病人に戻っている。

9月18日 
部長回診で、そろそろ退院といわれ、今日、明日にも帰る気になっている。

9月22日 
半年に、12日残して、退院。一時は意識のない父のそばで、もう一度一緒に家へ帰ろうと話しかけたことが実現し、これ以上の喜びはありません。 


  
あと書き 
 退院後、リハビリのために行った病院に嚥下障害の外来があることを知り、受診しました。国立○○病院ではついに受けることのなかった、VFを撮ってもらったところ、全快したのではなく、やはり口頭蓋の動きは悪く、完全には閉じず、少量の飲食物が気管に流れ込んでいるのが、画像で確認されました。今のところ、体力があるので肺炎になることもなく、持ちこたえているようです。体力が落ちると、また嚥下障害を起す可能性も大きいということでした。でも現在は、元気に普通の食生活を楽しんでいます。以前から通っていた体操教室や、カラオケの会にも行っています。
 今思うことは、手術後の合併症について、医師はあまり熱心になってくれないということです。耳鼻科の医師にも、なにもしてもらえなかったのもショックでした。「リハビリとして、こんな嚥下体操があるから家族でしてみたら。」くらいのアドバイスくらいはしてくれてもよかったのではないかと、強い不信感をいまでも持っています。胃ろうのままで退院して、生活するように言われ、そのままだったらどんな状態になっていたかと思うと、恐ろしい気がします。医師にも看護婦にも、「どんなことをしても、食べられるようにしてやりたい。」と、強い希望を出したことが良い結果を招いたと考えております。それには、山部先生や永田さんからいただいた励ましとアドバイスが、大きな支えとなってくれました。感謝しています。
 日記をあとで読み返してみると、その時は一生懸命つけていたつもりでしたが何の知識もないものが聞いたこと、感じたことを書き並べているだけで、役に立ちそうもありませんが、精一杯まとめてみました。
 退院してからの父は、毎食前に自分で嚥下体操をし、アイシングを続けています。よほどのことがない限り、食べ続けさせてやりたいと思っています。これから、どんな風になっていくのかわかりませんが、変化がありましたら、また掲示板で伝えさせていただきます。
 お忙しいのに、いつもすぐ心のこもったお返事いただきまして、本当にありがとうございました。これからも、私達のように困っている者のために、よろしくお願いいたします。

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